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昭和に活躍した 暮らしを支えるわが町の文化財

特集

昭和に活躍した 暮らしを支えるわが町の文化財

[佐古配水場第二喞筒場(そくとうじょう)]徳岛県内の水道施設で、最も歴史がある建物。多くの煉瓦を用いたイギリス積みの外壁によって強度を高めている
[佐古配水場第二喞筒場(そくとうじょう)]徳岛県内の水道施設で、最も歴史がある建物。多くの煉瓦を用いたイギリス積みの外壁によって強度を高めている
[松山地方気象台第一庁舎]约2年间かけて、老朽化による改修工事が行われた。その际、长く外されていた大时计が半世纪ぶりに復活
[松山地方気象台第一庁舎]约2年间かけて、老朽化による改修工事が行われた。その际、长く外されていた大时计が半世纪ぶりに復活
[佐古配水場第二喞筒場(そくとうじょう)]徳岛県内の水道施設で、最も歴史がある建物。多くの煉瓦を用いたイギリス積みの外壁によって強度を高めている
[松山地方気象台第一庁舎]约2年间かけて、老朽化による改修工事が行われた。その际、长く外されていた大时计が半世纪ぶりに復活

神社仏阁や観光施设、店舗、民家など、国登録有形文化财に指定されている建造物は全国で1万4000件以上もある。これらの建物は、地域の歴史や文化の语り手であり、懐かしい时代の息遣いを伝えてくれる存在と言えるだろう。

そうした建物には、市民の日々の暮らしを支えてくれた施設もある。1926年(大正15)に建築された徳岛県徳島市「佐古(さこ)配水場」の第二喞筒場(そくとうじょう)(ポンプ場)は、徳岛県における国登録有形文化財第1号。その後、指定を受けた源水井(げんすいせい)、集合井(しゅうごうせい)と共に「佐古配水场赤炼瓦建筑群」と呼ばれている。いずれも長く徳島市民の生活を潤してきた。

爱媛県内全域の気象業務を統括している松山地方気象台は、1890年(明治23)に爱媛県立松山一等観測所として発足した。そのシンボルであり、1928年(昭和3)に建てられた第一庁舎は、国登録有形文化財の指定を受けており、今も現役で活用されている。

今年は昭和100年という节目の年(※1)。その歴史を巡りながら、昭和に活跃した二つの施设の役割の大きさと、建造物としての美しさをあらためて検証したい。

※1:ここでは2026年(令和8)を1926年(昭和元)から起算して満100年とする(「昭和100年」ポータルサイト参照)

佐古配水场赤炼瓦建筑群

构想から17年を経て完成した悲愿の水道

水道が整备される前、徳岛市の生活用水は井戸水や山の涌き水で贿われていた。「ただ、徳岛市は海に近いため、井戸水には海水が混ざっていたり、卫生面で不安があったりしたことから、安心な饮み水の确保は市民の悲愿だったのです」と説明するのは、徳岛市上下水道局浄水课の胜野隆志课长。状况が変わり始めたのは1909年(明治42)、井戸水に含まれる雑菌が原因で伝染病が流行ったため、当时の一坂俊太郎市长は「水道を整备する」と宣言した。しかし、予算の确保や仕组みづくりに时间がかかり、1926年(大正15)にようやく悲愿の水道が完成した。

水道整备にあたり、调査?设计を担ったのは、「近代上水道の父」と呼ばれる中岛鋭治博士。博士は、「将来増える人口に対応できること」「いつまでも良い水が供给できること」の2点を重视して、名西郡蓝畑村第十(现在の石井町第十)を水源とすることを决定。水量豊富な吉野川が流れる第十は、海からの距离があり、堰があるため海水が混ざる心配もない。第十で汲んだ水は水道管によって佐古配水场まで送られ、滤过(ろか)や消毒をした后に、ポンプで佐古山配水池に约47尘汲み上げられる。

「高所に水を运び、そこから蛇口までは高低差を利用する自然流下によって届ける仕组み。夜间に配水池を満たしておき、翌日の需要に备えるという方式です」。完成当时、佐古配水场の水道水は、约2万4000人の生活用水となっていた。

中央のメダリオンは徳島市の市章。その周りには 「阿波国」の語源とも言われる「粟」
中央のメダリオンは徳島市の市章。その周りには 「阿波国」の語源とも言われる「粟」
第二喞筒場の内部。間仕切りや柱がない大空間には、 窓から自然光が差し込んでいる
第二喞筒場の内部。間仕切りや柱がない大空間には、 窓から自然光が差し込んでいる
彫り込まれたような窓枠や浮き出した柱などにより、建物全体に立体感がある
彫り込まれたような窓枠や浮き出した柱などにより、建物全体に立体感がある
中央のメダリオンは徳島市の市章。その周りには 「阿波国」の語源とも言われる「粟」
第二喞筒場の内部。間仕切りや柱がない大空間には、 窓から自然光が差し込んでいる
彫り込まれたような窓枠や浮き出した柱などにより、建物全体に立体感がある

通水100周年!歴史を语る建物を记忆に

「佐古配水場」の建築には、当時の徳島市の年間予算の3倍に当たる約260万円の巨費が投じられた。1995年(平成7)まで約70年間も稼働し、今は同じ敷地内にある新しいポンプ棟が役割を担っている。しかし今なお「佐古配水場」のシンボルとして親しまれているのが、イギリス積みの赤煉瓦で四方を囲った第二喞筒場(そくとうじょう)だ。建物の正面に立つと、最上部に施されたペディメント風(西洋建築に見られる三角形のデザイン)の装飾が目を引く。徳島市の市章と粟を組み合わせた紋章があり、その下にはバルコニー、外壁には白い半円形のアーチ窓が並んでいる。内部は漆喰仕上げ、小屋組は軽量鉄骨のトラス組(※2)となっている。古い洋風建築が少ない徳岛県では、非常に貴重な建物だ。

「内部に导入された设备もとても立派なものでした」と话すのは、浄水课の吉﨑浩史さん。当初は、ドイツ製の400马力発电机が据え付けられていた。现在は国产のディーゼル発电机に切り替えており、灾害などの紧急时に备えている。「つまり今もこの施设は现役。いざというときに稼働しているのです」と吉﨑さん。第二喞筒场は1998年(平成10)に国登録有形文化财に指定されたほか、ヘリテージング100选(※3)、厚生労働省の近代水道遗产にも指定されている。

登録有形文化財

隣接する円柱状の集合井(しゅうごうせい)と源水井(げんすいせい)はそれぞれ、池で滤过した水の计量、山へ送る水量调节の役割を担っていた。いずれも要所に花岗岩を配し、浮彫などの装饰が施され、第二喞筒场の外観デザインとの调和も意识されているようだ。この二つの建物も、国登録有形文化财に指定されている。

贵重な建物群ではあるが、耐震性などの悬念があり、一般に公开されていない。ただし第二喞筒场の外観は、敷地外部からも见ることが可能。「2026年(令和8)は通水100周年という记念すべき年。徳岛市の水道史を语る第二喞筒场の内部や他2栋については、この特集を通して记忆に留めてほしい」と愿う胜野さんと吉﨑さんだ。

※2:叁角形の部材を组み合わせて荷重を分散させる构造形式
※3:毎日新闻社の创刊135周年记念事业、日本全国から公募した近代遗产100件が选定された

集合井の内部。现在は塞がれているが、かつて中央の円形の部分に水を溜めていた
集合井の内部。现在は塞がれているが、かつて中央の円形の部分に水を溜めていた
第二喞筒场と同様に、花岗岩の装饰や窓?柱の凹凸により立体感がある集合井の外観
第二喞筒场と同様に、花岗岩の装饰や窓?柱の凹凸により立体感がある集合井の外観
小规模ながら、パラペット(屋根の外周に立ち上がっている低い壁)や窓周りの花岗岩など意匠にこだわりを感じさせる源水井
小规模ながら、パラペット(屋根の外周に立ち上がっている低い壁)や窓周りの花岗岩など意匠にこだわりを感じさせる源水井
集合井の内部には、水量计など当时使われていた计器类も残されている
集合井の内部には、水量计など当时使われていた计器类も残されている
「徳岛の近代史を语る贵重な建物」と话す徳岛市上下水道局の吉﨑さん(左)と胜野さん(右)
「徳岛の近代史を语る贵重な建物」と话す徳岛市上下水道局の吉﨑さん(左)と胜野さん(右)
集合井の内部。现在は塞がれているが、かつて中央の円形の部分に水を溜めていた
第二喞筒场と同様に、花岗岩の装饰や窓?柱の凹凸により立体感がある集合井の外観
小规模ながら、パラペット(屋根の外周に立ち上がっている低い壁)や窓周りの花岗岩など意匠にこだわりを感じさせる源水井
集合井の内部には、水量计など当时使われていた计器类も残されている
「徳岛の近代史を语る贵重な建物」と话す徳岛市上下水道局の吉﨑さん(左)と胜野さん(右)

佐古配水场赤炼瓦建筑群

住所
徳岛県徳島市南佐古六番町3-11
电话番号
088-674-1334(徳岛市上下水道局)
备考
※一般见学は不可
※第二喞筒场の外観は、敷地外部から见学可能

松山地方気象台

2阶ホール。円柱の足元には木製台座。阶段や建具、手すりも同じ色合いの木製で统一
2阶ホール。円柱の足元には木製台座。阶段や建具、手すりも同じ色合いの木製で统一
戦时中、国へと移管された测候所时代。気象は军事机密で、敌袭を避けるため、外観は黒涂りにされた(提供/松山地方気象台)
戦时中、国へと移管された测候所时代。気象は军事机密で、敌袭を避けるため、外観は黒涂りにされた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。データを収集?分析するための机器类(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。データを収集?分析するための机器类(提供/松山地方気象台)
切妻屋根の小屋里は、强固な构造が见られる。现在ではあまり使われないリベット接合(鋲(びょう)により2枚以上の金属をつなぐ手法)も确认できる
切妻屋根の小屋里は、强固な构造が见られる。现在ではあまり使われないリベット接合(鋲(びょう)により2枚以上の金属をつなぐ手法)も确认できる
128机の叠-29(爆撃机)が飞来し、896迟の焼夷弾が落とされた松山大空袭の日の记録が残っている
128机の叠-29(爆撃机)が飞来し、896迟の焼夷弾が落とされた松山大空袭の日の记録が残っている
2阶ホール。円柱の足元には木製台座。阶段や建具、手すりも同じ色合いの木製で统一
戦时中、国へと移管された测候所时代。気象は军事机密で、敌袭を避けるため、外観は黒涂りにされた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。黒电话で県内各地の出先からの情报を集めていた(提供/松山地方気象台)
昭和40年代の松山地方気象台の様子。データを収集?分析するための机器类(提供/松山地方気象台)
切妻屋根の小屋里は、强固な构造が见られる。现在ではあまり使われないリベット接合(鋲(びょう)により2枚以上の金属をつなぐ手法)も确认できる
128机の叠-29(爆撃机)が飞来し、896迟の焼夷弾が落とされた松山大空袭の日の记録が残っている

モダンな雰囲気をもつ拟洋风の美しい建物

自然現象を常時観察し、防災情報を自治体や市民と共有して、防災官庁としての役割を果たす地方気象台。爱媛県内全域を対象に責務を果たしている「松山地方気象台」は、1890年(明治23)に「爱媛県立松山一等測候所」として松山市勝山町に設置された。大正時代には「爱媛県立松山測候所」に改称され、1928年(昭和3)に現在地へと移動。それに伴い新築されたのが、擬洋風建築の第一庁舎だ。

当時、県立の施設であったため、設計に携わったのは爱媛県技師の戸村秀雄。彼の師匠は、爱媛県庁本館(登録有形文化財)や萬翠荘(ばんすいそう)(旧久松伯爵別邸?国重要文化財)(※4)を設計した木子七郎(きごしちろう)だ。松山地方気象台の防災気象官である楠田和博さんは、「そのため第一庁舎の意匠は、県庁舎や萬翠荘と似通ったところがあります」と話す。

正面からの第一庁舎外観は、中央に层塔がそびえ立ち、东に切妻屋根、西は陆屋根がある左右非対称の洒落た建物。内部にもモダンな雰囲気が漂っており、2阶まで吹き抜けになった玄関ホールは、ギリシャ风の円柱、白壁に木製の阶段が美しい。こうした意匠だけではなく、构造面でも当时最先端の手法が採用されている。小屋里は鉄骨の尝字型钢を使ったフィンクトラス组(※5)で、これは万翠荘とほぼ同じ构造となっている。

细部には、西洋式上げ下げ窓、リノリウムの床材、模様が施された色ガラスなど、建筑当时のままのしつらえが随所に见られる。建筑から90年以上を経て、老朽化が进んでいた建物は、2023年(令和5)に改修工事を终えている。可能な限り、昔の面影を残した素晴らしい仕上がりとなり、専门家からも评価されている。

※4:本誌里表纸「まちの景観」で绍介
※5:トラス组の一种で、奥字型の形状が特徴。広さのある屋根に适し、内部に柱を立てずに大空间を确保できる利点がある

かつて使用していた円形の风向板は层塔の天井に残されている
かつて使用していた円形の风向板は层塔の天井に残されている
玄関ホールの吹き抜け天井に、シャンデリアの跡が确认できる
玄関ホールの吹き抜け天井に、シャンデリアの跡が确认できる
床から约2尘の高さにある蛇口。防灾用のものと推测されているが、「当时の用途や使い方は不明」と楠田さん
床から约2尘の高さにある蛇口。防灾用のものと推测されているが、「当时の用途や使い方は不明」と楠田さん
复数の円柱が优雅な雰囲気を醸し出している玄関ホール。阶段に使われているリノリウム材も当时ならではの部材
复数の円柱が优雅な雰囲気を醸し出している玄関ホール。阶段に使われているリノリウム材も当时ならではの部材
「耐震性など全てクリアしていますので、ぜひ多くの方に见ていただきたい」と话す楠田さん
「耐震性など全てクリアしていますので、ぜひ多くの方に见ていただきたい」と话す楠田さん
かつて使用していた円形の风向板は层塔の天井に残されている
玄関ホールの吹き抜け天井に、シャンデリアの跡が确认できる
床から约2尘の高さにある蛇口。防灾用のものと推测されているが、「当时の用途や使い方は不明」と楠田さん
复数の円柱が优雅な雰囲気を醸し出している玄関ホール。阶段に使われているリノリウム材も当时ならではの部材
「耐震性など全てクリアしていますので、ぜひ多くの方に见ていただきたい」と话す楠田さん

激动の昭和を生き抜き贵重な记録を残した施设

现役の施设として活用されている松山地方気象台第一庁舎の1阶には、気象や地象に関わる実験装置、歴史资料などを置いた展示室が设けられている。展示された资料で目を引くのは、1945年(昭和20)の気象観测记録だ。松山大空袭があった7月26日の深夜から翌日未明にかけて、「火灾(空袭)により不明」の文字が书かれている。その日、市街地にはたくさんの焼夷弾が落とされ、気象台にも危険が迫っていたはずだ。「365日、24时间休むことなく行われている気象観测。职员は恐怖を感じながらも、必死で业务を遂行したことが想像できます」と楠田さん。また当日の天気図は高気圧に覆われているため、本来なら雨は降らないはずなのに、雨の天気记号が残されている。これは空袭で生じた煤や埃が粒子となって、局地的に雨が降ったためと考えられるそう。

さらに戦时中の苦労を教えてくれるのは、気象台に残された1枚の写真。空袭を避けるために、目立たぬよう建物の外壁が黒く涂りつぶされているのだ。この建物は、まさに「昭和の証人」と言える。

2006年(平成18)に国登録有形文化财に指定された価値ある建物は、事前に申し込みをすれば见学可能。「建物见学はもちろんですが、気象や地象を分かりやすく学べる実験装置などもぜひ体感してほしい」と楠田さん。近年は地震や豪雨など自然灾害に不安を感じている人も多い。その备えの一つとなるのが、気象台が発信している情报だ。

登録有形文化財

このほか、敷地内には梅やアジサイなど5种の标準木(※6)が植えられている。にぎわう市街地から近距离でありながら、穏やかな雰囲気に包まれている松山地方気象台は、昭和という时代を学び、気象や地象を知る上で、ぜひ访ねたい施设だ。

※6:开花や満开などを観测する対象となる木

竜巻発生装置や津波フラッグ、戦时下の记録(复製)などを见ることができる展示室
竜巻発生装置や津波フラッグ、戦时下の记録(复製)などを见ることができる展示室
各种防灾、気象情报、実况监视の拠点である现业室。予报や警报はここから発信している
各种防灾、気象情报、実况监视の拠点である现业室。予报や警报はここから発信している
竜巻発生装置や津波フラッグ、戦时下の记録(复製)などを见ることができる展示室
各种防灾、気象情报、実况监视の拠点である现业室。予报や警报はここから発信している

松山地方気象台

住所
爱媛県松山市北持田町102
电话番号
089-941-6293
奥别产サイト
备考
※见学予约の申し込みは平日9:00?17:00(业务の都合上、受け入れられない日时もある)